Gothic 序章

Web謎解きゲーム “Gothic”

2022/9/15 公開.

家の玄関マットの中央に、本が置かれていた。ただの落とし物ではあり得なかった。誰かが故意に置かなければ、そんな場所に本があるはずがないのだ。まるで見つけられるのを待っていたかのようだった。

彼女、ヘウェチカ・ユーヘルベチカ・ノイエには、特別なものはなにもないはずだった。体格だって少々華奢なくらいでさほど変わらないし、見た目が忌避されるようなものであるわけでもないし、学業の成績だって目立つようなところにはいないし、趣味だって――今でこそこうして誰とも馴染むことなく独りで空想に耽るのが日課のようになってしまったが、それこそクラスの皆と知り合った当初の趣味は年相応の女の子のそれだった。

それが、いつの頃からこうなってしまったのだろうか。

はじまりはほんの些細なことだった。その日はたまたま予約していた本の受け取り日だったので、同級生からの遊びの誘いを断っていた。次の日の昼はカフェテリアで誰かの足に躓いて、思い切り昼食を床にぶちまけてしまっていた。厄日だと思って気も滅入っていたその日の学校帰りは、雨の日だというのに置いていた傘がどこかに行ってしまい、先生に報告して一緒に探してもらった。結局その傘は見つからなかったが、翌日の朝に間違って持って行った人は申告するよう、先生からクラス全員に言及があった――まるで彼女が誰かの悪行を告げ口したかのように。色々な出来事が立て続けに起こって、どこかのタイミングで、決定的に誰かの癪に障った。どこまでが偶然でどこからが必然だったのか、今や知る由もない。

それが必然だと誰もが知るようになってからは、やる側も悪意を隠さなくなった。ある時は帰ろうと思ったら靴を隠され、またある時は机の中に誰かの残飯がぶちまけられていた。体に被害が及ばないうちはまだましで、良かれと思って拾った金属製のボールペンが火傷するほどに熱されていたことすらあった。

彼女はここ最近はこういった不自然な落とし物を無視するよう努めていた。こういうガラクタに手を出すと、自分に敵意を持った誰かが仕掛けた、タチの悪い悪戯に巻き込まれることが少なくないからだった。しかし、こう自宅のドアの前に置かれてしまっては、無視するわけにもいかなかった。

その本はよく見れば、遊びで手を出すにはかなり高級そうな装丁をしていた。ハードカバーの黒い表紙には、金文字で知らない言葉が彫ってあった。誰からも相手にされなくなって図書室通いの長かった彼女は、まるで歴史書か何かのようなその本になんとなくの目星をつけた。控えめに言って、一週間分の食事が賄えるほどの価値がある本ではないか、と。

これはさすがに悪戯にしては出来過ぎていると思った。彼女は周りで悪意を持った誰かが覗き見していないかを確かめると、その本を拾い上げた。

「――。」

何も起こらなかった。茂みから人が飛び出してくるなんてことはおろか、風の一つも吹きやしなかった。

家の玄関にあるからには、我が家に属するものであることに違いはないだろうと思った。彼女はその本を持ったまま、静かに家の玄関をくぐった。ただ家に帰ってきただけなのに、妙な罪悪感があるのが気に食わなかった。


部屋に持ち込んで初めてその本を開いたとき、よく見知った文字を壊したような見た目の書体の羅列に、鳥肌が立つような嫌悪感を覚えた。手元に置いておくにもゴミ箱に捨ててしまうにも不気味な気がして、こっそり近隣のゴミ捨て場に放ってしまおうかと考えた。

ところが、怖いもの見たさか、本をめくる手が止まることはなかった。読めば読むほど、その本は興味深かった。見たことも聞いたこともない言葉なのに、見れば見るほど不思議とその意味が理解できるようになっていった。

彼女の学校帰りが足早になるのに日はかからなかった。少しの休み時間を利用してでも読みたいのはやまやまだったが、自分の持ち物に対してどんな危害が加えられるかわからない以上、彼女は必要以上に物を学校に持ち込まないようにしていた。それで彼女は学校が終わるとすぐにあの不思議な本が待つ家へと一直線に向かうようになった。きっと自分以外の誰もあの内容を解せないであろうことが、彼女の琴線に触れていた。

毎日少しずつ読み続けているうちに、本の内容が少しずつ読み取れるようになってきていた。断片的な内容から察するに、それは童話集のようだった。

「もっとこのお話のこと、知りたいな」

もう子供ではないのだから、本に向かって語りかけても無駄なことぐらいわかっていた。

「まだ誰も知らないお話、教えてよ。私、誰もいないところに行きたいの」

まだ年端も行かず、お人形遊びをしていたあの頃の想像力豊かな自分なら、この本とだって話ができただろう。たとえば、仲良くなるためのはじめの一歩は、人でもモノでも変わらずこう聞かれるのだ――「あなたのお名前は?」と。

“heqecka eu.” “Helvetica Neue.”

そんな幼い想像につられて、久しく誰からも呼ばれていない、自分の名前を口にしたつもりだった。

代わりに出てきたのは、漏れ出るような息と掠れた声だけだった。はっとして手を当てた唇は無機質な人形ほどに乾き切っていた。

“heqecka. k’lat myt i.” “Glad to meet you, Helvetica.”

脳裏に響いた幽かな声が、その名前を復唱した。

違う、今のは噛んじゃっただけ。私の名前は――

そこまで考えた途端、激しい眩暈が彼女を襲った。得体の知れない声が、意志が、彼女にその名前を呼ばせまいとしているようだった。今や彼女は自分の名前を思い出すことさえ許されていなかった。倒れこんで見上げた部屋の天井には、見たこともない、ただ物語で描写を読んだ記憶のあるようなシャンデリアが、ランプの灯りに照らされて煌めいていた。

しばらくの間、彼女は掴みどころのない意志に抵抗していたが、それもしばらくすると諦観へと変わっていった。考え疲れた頭と潤む目は、むしろこの現実とも虚構ともつかない状況を、ある種の喜びを持って受け入れつつあった。

思い出せなくなってしまった名前を思い出そうとする最後の意志を、ハエでも振り払うかのように遠ざけた。それで構わないと自分を納得させるのには、ほんの少しの言葉で十分だった。

もとより、私の名前を呼んでくれる人などいなかったのだから、と。


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