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他人の言葉を伝える仕事に思う

私が中学生の頃所属していた生徒会には、2種類の不定期刊行物がありました。

ひとつは生徒会の活動報告である、生徒会広報誌。そしてもうひとつは、生徒からの自由な寄稿や生徒会主催の企画などをまとめて、不定期に発行する雑誌です。

私はかつて1年間、当時の生徒会長に半ば依頼を受ける形で、この雑誌の編集長をしていました。

今会える一番偉い人にインタビューしよう、と誰かが言い出した

そんな雑誌の定期企画として、先生にインタビューするという企画がありました。生徒会主導で予めアポを取って放課後の時間を頂き、普段は聞けないプライベートの話や生徒に対して思うところなどを語っていただく企画です。

自分が編集長になる前の年は、その年度の最後の回に「特別編」と称して、学校の隣にあるコンビニの名物店長に(ちゃんとアポ取って)インタビューするという、今考えてもアグレッシブさを振り切った規格を敢行し、その記事が載った回は軽く伝説となりました。その当時の内容は今でもうっすらと覚えていて、昼休みになると生徒が大挙して詰めかけ、さぞ迷惑しているだろうに、一度こうやってちゃんと話してみたかったのでいい機会だった、もし子供ができたら(この中学校に)行かせてみたい、とまで仰っていて、いま改めて振り返ってみてもえらい器だなあと思います。

我々の年度の生徒会は会長を筆頭にそれなりに熱の入った組織で、前年度に負けないデカいことをやってやろう、みたいな雰囲気がありました。それで、その年度の最後の回のインタビュー先について話していた席で、誰かがふと「理事長にインタビューできないかな」と言い出したのです。

理事長というと普段は学校なんかにはおらず、それどころかどこぞの企業の取締役だか監査だか何だか知らないが……のような、高嶺の花を通り越し、今風に言えば異世界の花のような存在でした。我々との接点があるとすれば、私の中学校ではだいたい校長も理事長も代々OB・OGがやるという暗黙の了解のようなものがあり、自分の遠い大先輩である、ということがわかっているくらいです。

これは極めて個人的な話ですが当時の理事長は私の親類の会社の上司でもありました。そこで食事の席でボソッと、こんな話があるんだよね、みたいな話をしたところ「ぜってー来んな(意訳)(多少マイルドにした表現)」と言われてしまいました。そりゃそうよね。

これはつまり理事長インタビューが決定する=親類の会社に乗り込むことになる=全身が爆散して東京の夜景を彩る光の一つになってしまうこと請け合いだったので、私はあまり乗り気ではなかったのですが、ともかくこの話は理事長まで届き、そして本当になぜだか、明らかに仕事中の時間であるにもかかわらず「この日この時間に来てね」の連絡が来ました。場所は東京八重洲のオフィスビル高層階。いやいやおかしいおかしい。

いつも通りのインタビューと作業、のはずが

普段の流れだと、インタビューと並行して内容を録音し、後日それを文章に書き起こして仮原稿とします。そしてそれを印刷したものをご本人に一度お渡しして、内容に問題がないかをチェックしてもらいます。それが通れば雑誌のページに組み入れて無事発行、となります。まあ学校の先生が内部向けに発行される雑誌の内容にケチをつけることはあまりありませんでしたので、内容のチェックは誤字脱字確認ぐらいの感覚でした。ともあれ、理事長インタビューの回もその流れを踏襲することになりました(他にやりようがなかったですからね)。

我々学生服には不釣り合いな緊張感とは裏腹に、理事長は大変丁寧にご対応、お話しして下さいました。そして、録音したインタビュー音声をいつも通り書き起こして、本当に何の気なしに、念の為、程度のつもりで理事長宛てに郵送したのです。提出した仮原稿が返ってくるまでには普段より時間を要しました。

そして返ってきた原稿を見て、私はこの仕事を通して最大の驚愕を得ることになるのでした。

テセウスの原稿?

その仮原稿は見渡す限り赤ペンの嵐で訂正され尽くしており、私が書いた文章(ただ書き起こしただけなので私が考えて書いた文章ではないのですが)はほとんど残っていませんでした。本当に提出した文章と同じものなのだろうか、と疑ってしまうような有様で返ってきたのです。

とにかく予定に間に合わせるために訂正された文章を読みながらパソコンに叩き込んでいったのですが、同時に、どういった観点でこの訂正が行われたのかについて、当時の私にとっては重要な興味深い洞察を得ることができました。

話し言葉をそのまま書き言葉にしない

まず、ただインタビューで発された話し言葉をそのまま書き起こすのは、責任ある立場の人であればあるほどよろしくないということです。特に当時中学3年生の我々に向かって大の大人が話すわけですから、多少平易な表現やくだけた表現なども使っていただいていたと思います。内部向け文書であるならまだしも、不特定多数の人間に書き言葉として発信する言葉としては不適切である、ということです。パブリックイメージが重要な立場の人であるならなおさらです。

その場で発された言葉は話し手の意向を100%汲み切れていないかもしれない

いくつかの表現についてはまるっきり置き換えられていたほか、誤解を招きかねない軽微な表現も丁寧に修正されていました。その場で考えながら話す時、自分の思っていることを正確に相手に伝えるための言葉を一発で紡ぎ出すのは、どんなに熟練している人でも困難です。一時間以上も話し続けていたら、後から振り返ってみても100%完璧であるはずがありません。

社会的信用を他人に委ねる、ということ

今思えばこのインタビューができたこと自体が非常に幸運でしたし、ご自身の目で校閲を行ったのか、秘書か誰かに任せたのかは定かではありませんが、たかが15歳の制作物に対して国家レベルの重要人物がこれだけ多くの時間を割いて下さったこと自体が今となっては信じられないことです。急にこんなことを思い出したのは、ネットニュースでのインタビュー記事を読んでいて、ものすごく違和感を感じたからでした。

別にインタビュアーに巧拙があったとか、文章が日本語としてどうとかの問題ではありませんでした。ですが、その記事を読みながら、私はある確信を抱いていました。「このインタビュー記事はおそらく本人の目を通さずに出したな」、と。

それがどのような経緯で上梓されたのかは定かではありません。「そんな手間かけてたら仕事が遅れるだろう」といって現場判断でそうなったのか、あるいは「そんなの見てる暇ないから好きにやってくれ」のようなことを言われたのか、概ねこのどちらかだと思うのですが、どちらにしてもその記事はおそらく本人の言いたかったこととは違う受け取り方をされてしまう危険を大いに孕んでいることでしょう。特に一つの失言が社会的信用にゼロを乗算してしまう現代の日本においては危険な行為だと思います。不可能であるならばせめて読んでいる側に誤った印象を伝えないという何らかの規則は必要でしょう。

人のイメージは本当に微細な表現の差で大きく変わります。自分の主義主張を他人に委ねるのであればそれなりの緊張感が必要ですし、委ねられた側には大きな責任があるべきです。話し言葉として聞いていれば何の問題もなかった表現が、そのまま書き言葉になって読まれたら大問題に発展する、なんてこともあるかもしれません。

日頃から他人の言葉を扱う人には、特に肝に銘じてもらいたい。私のささやかな願いです。

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